ブログスタート

こんにちは。

映画監督の三澤拓哉です。

この度、自分のブログページをつくりました。

ブログをはじめる理由は色々と思い浮かぶのですが、学生時代に「ミサワさん、エッセイ書いたら面白そう」と言ってくれた友人の言葉が頭に残っていたから、というのが一番のような気がします。(いきなりハードル上げてどうするの?)

ブログの内容としては

  • 身辺雑記
  • 映画のこと
  • 読んだ本のこと
  • たまに行く美術館、展覧会のこと
  • 行った場所、イベントのこと
  • この春、立ち上げる映像制作会社のこと

などがメインになると思います。要するに「なんでも」ってことですね。

今回は初回ということで、「どのような道をたどって映画監督になり、今の自分に至ったか」を長めの自己紹介としてざっくり書いていこうと思います。あくまで、「ざっくり」と、今後に向けた目次のようなつもりで。

(ブログページをつくること自体、実は二度目なのですが、諸事情あり、新たに開設しました)

”海のない湘南”に生まれて

わたしは神奈川県の寒川町という”海のない湘南“の生まれです。両親とも同じ寒川生まれ寒川育ちで、親戚が多く、大人数で食事会が行われることが度々ありました。いとこ世代でも自分が最年少だったので、自分よりも年上の人たちと、いつも一緒にいた記憶があります。

(県外へ出た時に「出身? 湘南だよ」とか、「茅ヶ崎!(小さな声で)の北にある町」と言ったりしていた時期がありました。すみません。)

「足が遅い」こと

小学生になり、兄の影響でサッカーをはじめます。しかし、足が遅いのもあって、なかなか上達しません。ただ、足が遅くても体力はあったので、鬼ごっこやドロケイをやると、持久戦に持ち込んで、友だちからウンザリされることもありました。(うわぁ…と自分でも思います)この「足が遅い」というのは自分の性格に大きな影響を与えていると、最近よく思います。

サッカー部退部

上手くならないサッカーですが、高校卒業まで続けました。ただし、高校1年の数ヶ月を除いて。その数ヶ月は、サッカーに挫折し、ひょんなことから初めて映画をつくる期間となります。

中学時代は部員不足のため単独チームで試合ができず、同じく部員不足だった隣の中学校と合同チームを組んで大会に出場するようなサッカー部に入っていました。

ところが、県内で少し名の知れたサッカー強豪校に進学すると状況が一変します。

3学年で100人近い部員数で、一年生はボールの点検や、グラウンドの整備など、雑用が主な仕事。ボールの空気圧が減っていたりすると罰として走らされ、引いたラインが曲がっていれば、また走らされ、この罰走(ばっそう)と呼ばれた制度に耐えられず、入部2ヶ月で退部したのでした。より正確に言えば、先輩後輩関係の理不尽さと、自身の走力の無さ、その両方に耐えられなかった、ということだと思います。

初めての”映画”づくり

サッカー部を辞めると、途端に時間を持て余しはじめます。放課後ってこんなにも長いのかと思いました。

そんな折、保健体育の発表用に深田恭子、金城武主演のドラマ「神様、もう少しだけ」にパロージュ(造語です)を捧げたビデオ作品をつくることになるのですが、振り返ると、これが自分にとって初めての”映画”づくりと言えるかもしれません。

同じくテニス部をドロップアウトしたH君の家にあった壊れかけのカメラを持って、街に繰り出した高揚感や、上映中に不仲だった友人が笑っているのを横目で見たことなど鮮明に覚えています。

映画の道へ

その後、友人に背中を押してもらい、サッカー部に再入部して、3年の冬まで続けました。高校卒業後は一年の浪人期間を経て明治大学へ進学。卒業を半年後に控えたころ、映画の道を決意して2011年の春、日本映画大学へ。

(この決断の裏には大学4年次にあった転機となる出会いの連続にあるのですが、それはまた別の機会に書こうと思います)

二度目の大学生活と監督デビュー

当時の日本映画大学は2年前期まで基礎演習、2年後期からそれぞれの専門コースに分かれるカリキュラムでした。

自分は映画理論を専攻しつつ、その合間に映画製作会社の見習いとして、撮影現場に参加するような学生生活を送っていました。そのような時期が1年半ほど続いたころ、製作会社から「監督として映画を作らないか」と声をかけて頂きました。それで作られたのが、初監督作『3泊4日、5時の鐘』です。

この映画は、映画監督の小津安二郎がシナリオ執筆のため定宿としていた老舗旅館「茅ヶ崎館」を舞台に男女7人の恋心が交錯する模様を描いた群像劇です。完成後、幸いにも国内外の映画祭から招待して頂きました。(2022年3月3日-21日の間、大阪アジアン映画祭の大阪アジアン・オンライン座で見ることができます)

 

映画監督として

卒業が近づいてきた2015年1月。オランダのロッテルダム国際映画祭に参加中、道でタクシーに轢かれ、10日間入院するアクシデントに見舞われます。そのため、卒業論文の提出に間に合わず、1年留年し、翌年の春に卒業することになりました。

その年は、短編ドキュメンタリー『Return』、ワークショップ作品『C-side town』を監督し、発表しました。

そして、翌2017年、香港の友人たちをメインスタッフ&キャストとして招き、挑んだ長編第二作『ある殺人、落葉のころに』を撮影します。

『ある殺人、落葉のころに』の完成・公開の一方で

自分にとっても、恐らく参加したみんなにとっても、大きなチャレンジだったこの映画は、完成後、釜山国際映画祭を皮切りに各国の映画祭に招待され、日本だけでなく香港での劇場公開も果たすことができました。

完成から公開までの日々は、自分たちがこの映画のためにやってきたことへの自信を深めていく一方、香港の民主化デモに参加した映画スタッフでもある友人が警察当局に拘束され、結果的に国外へ逃避することになるなど、つらい時期でもありました。それは、今も解決していない問題です。

プロダクション「風像」設立

初監督作から7年。自分がどのように映画と関わっていくか、を考えてきました。

その答えの一つが、自身のプロダクション「風像(ふうぞう)」の設立です。

この「風像」と共に、今後、さらに様々なことに挑戦して行きたいと思っています。

(設立に至るまでの問題意識や「風像」でやっていきたいこと等はまた別の機会に書きたいと思っています)

以上、本当に長々と書いてしまいました。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

それでは、また。

ミ澤拓哉

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