この空気に飼い慣らされないために

3月9日、ある映画監督の性暴力が報じられました。

声を上げた方・被害に遭った方が少しでも安心できますように、

連帯の意志を表明します。

 

 

以下に記したのは、 映画関係者が起こす性暴力、セクハラ、パワハラのニュースを見る度に、私が思い出す二つのことと、それについての所感です。

その二つのことと、今回報じられた件とは直接的な関係はありません。 映画の作り手である自分自身に杭を打つ、そのために書いた文章です。

この空気に飼い慣らされないために

映画関係者による性暴力、セクハラ、パワハラのニュースを見る度に思い出すことが二つある。

一つは足立紳監督作『14の夜』のこの映画.comの記事である。

初めて読んだ時、こんなものを世に出していいのか、と驚いたのを覚えている。 引用することに抵抗を感じるほど、タイトルから酷いが、特に記事内にある監督の「〜男性スタッフがぞろぞろとモニターの前に集まってきてしまったのを忘れられません」というコメントを読んで唖然とした。

当時10代だったこの出演者が前向きなコメントを残していても、その光景を想像するだけで、おぞましく感じた。

私の知る限り、署名の無いこうしたweb媒体の記事は取材に基づいて書かれたものではなく、 「プレスリリース」と呼ばれる映画の広報・宣伝サイドが用意した資料を元にしていることが多い。各媒体は送られてきたプレスリリースを元にアレンジを加えたり、場合によってはそのままコピー&ペーストしたりして、記事としてアップする。

もし、この記事がプレスリリースを元にして出されたものだとしたら、 撮影現場だけでなく、そこから離れた場所(=広報・宣伝)でも、その価値観を共有していたと言えるだろう。

2016年に書かれたこの記事を、映画関係者による性暴力、セクハラ、パワハラが報じられる度に、検索し、探してしまう。 関わった誰かが「あれ残してたらマズいですよ」と気が付いたりして、 記事の削除要請をしてたり、 媒体側が「これ残しておくのヤバイですよね?」と言ってこっそり削除していないか。 小賢しく見えても、その意識の変化があるだけ良いと思ってしまう。 そんな淡い期待を抱きながら、検索するが、今日もまだある。(※ 当該の記事が削除されているのを確認したため追記します 2022.3.21)

もう一つは、25歳の時に参加した撮影現場でのこと。 当時、映画の専門大学に通う3年生だった私は”見習い制作部”として京都を舞台にした映画の撮影に参加した。 その日の撮影は料亭で行われた。

皆が次の撮影に向けて準備をする中、当時30前後の助監督が私に向かって 「その気になれば、お前の精神を壊すことができる」というようなことを言った。 一言一句が正確かは自信がない。ただ「精神」という言葉ははっきり覚えている。 自分が何をして、そう言われたのかは思い出せないが。

現場はその一言で緊張が走った。 自分はどんな顔をしていたのだろう。 どうすることもできず、その場で立ち尽くしていると、そばにいた監督が「イジメないでください〜」と言った。 助け舟だと思った。 自分に対しての、そして空気が重くなる現場に対しての。 すると、その監督の発言に対して、すぐ横にいた当時60半ばの撮影監督が 「いやあ、そういうのも必要なんだよ」と言った。

なに言ってるんだろう、と思った。 私の理解が追いつく前に、 他のスタッフが動きはじめたので、自分も次の撮影に向けて再び動いた。

振り返ると、助監督の発言以上に 撮影監督の言葉に絶望する。

それと同時に、まさにこのような”下っ端をいびる精神”が受け継がれて、今の映画業界があるのだと納得してしまう自分もいる。

 

一つ目は読んだ記事のこと。二つ目は自身が経験したこと。二つの性質はそれ以外の部分でも大きく違うのは分かっている。 しかし、私にとって、そこで炙り出される感情は同じ「諦め」だ。

3月15日、性暴力を報じられた監督の映画が予定通り公開される、と発表された。 結局、何も変わらず、また元通りになってしまうのか。(※公開中止が発表されたため追記します。2022.4.1)

 

上で書いたことは、映画業界ではありふれた光景だと思う。 中には、私が何を問題視しているのかピンとこない人もいるだろう。 私からすれば、そういう人は感覚が麻痺していると思う。

以前、ハラスメントの防止をテーマに話し合う催しに参加した際、 一人のベテラン監督が「僕たちの世代はみんなセクハラとかパワハラを乗り越えてきちゃったから」と言った。 ちがう、と思った。 自分の傷みにも、他人の傷みにも鈍感になっただけだろう、と。

件の映画監督による性暴力の報道に、声を上げている映画関係者は意外なほど少ない。 いつも公権力にNOを言う人が、この問題に対しては黙りこくっているように見える。

もし、自分がハラスメントを”乗り越えてきちゃった”監督だったら、 声を上げるのは難しいだろう、と思う。 なぜなら、これまで見て見ぬ振りをしてきたものが、ぶり返してくるだろうから。

そうではなかったとして、 仮に今、自分が大きな仕事が決まっていたら、決まりかけていたら、あるいは将来それを望んでいたら、業界に対して批判的な意味合いを持った文章を書けるだろうか、とも想像する。

難しいだろうと思う。「あいつは面倒くさいやつ」と思われたくない気持ちが働くだろう。保身である。

 

もちろん、声をあげることも、あげないことも自由だ。それぞれの事情や心情がある。 第一、インターネット上だけが全てではない。SNSなどで見える部分はその人のほんの一部でしかないと思っている。 ただ、何らかのアクションを起こさない限り、何も変わらない。 (これは作劇の基本でもありますよね?)

私は現在、フリーランスの映画監督をしている。 自身とキャスト・スタッフの関係性が健全な状態であるか、 常に問いたださないと行けない立場である。 今後もその意識を切らさないようにしたい。

また、映画監督は周囲に対し「公正であること」は当然として、 作品が「面白いこと」で、はじめて評価される存在である、と自戒を込めて書き添え、この文章を終えたい。

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