佐藤忠男先生が逝去されて

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「人の話しを聞ける人」

どんな人が映画の作り手に向いているか、という質問に学長の佐藤先生はそう答えた。

日本映画大学の受験説明会でのこと。

映画は強烈な個性を持ち、表現することに長けた人のためのものだと思っていたが、

そうではなく、受け止めることができる人が向いているらしい。

会場の片隅に座っていた私は、それなら自分にもできるかもしれない、という直感を得て、

約半年後、日本映画大学に入学した。

もちろん「人の話を聞く」と一口に言っても、簡単なことではない。それを痛感したのは入学直後に取り組む実習科目でのことだ。

「人間総合研究」という名のこの実習は、一班15人前後で組み、取材対象(人・モノ・コト)を決め、約2ヶ月の制作期間を経て作品を合評会で発表する、というものだ。取材時には写真用フィルムカメラと録音機材だけ用いるので、映像ではなく静止画によるドキュメンタリー作品のような完成形になる。

取材の申し込みから全ての行程は学生に委ねられている。私たちは取材対象者から何を聞くべきか、その言葉を通して、何が見出されるかを問い続け、取材を進めていく。取材対象者は必要に応じ、2人、3人、4人と増えていく。そうすると、初めは見えなかった1人目の取材対象者を囲む”社会”がおぼろげながらに見えてくる。

取材で聞いた言葉、班内で交わした意見、多くの「聞く」という行為を通して、はじめて何を表現すべきか、というステージに立つことができる。

合評会で私たちの作品は佐藤先生に「画期的な傑作」と激賞された。その後、すぐに佐藤先生は学生の作品をかなり褒める傾向にあると知るが、それでも自分にとって、初めての作品がそのような評価を得られたのは率直に嬉しかった。

大学生活2年目に入ろうとした頃。学内の機関紙「日本映画大学だ!」の編集委員をしていた私は、その号の目玉企画として友人と一緒に佐藤先生のインタビューを担当することになった。

当時、フランス現代思想かじりたての私は変に気負ってしまい、小難しく、それっぽい言葉でインタビューをしていたように思う。そんな私に対し、佐藤先生は一貫して平易な言葉で応じられていた。映画評論とは、という問いに「解説です」と一言で返され、肩透かしをくらった思い出がある。しかし、いま改めて佐藤先生の功績を振り返ると「解説」の一言に底知れぬ奥深さを感じる。

大学4年目、初監督作『3泊4日、5時の鐘』が完成すると、個人的にお話しをさせて頂く機会が増えた。

劇場公開時にはパンフレットへの文章や、チラシへのコメントを寄せて頂いた。また、会う度に、次(の作品)は決まってるのか、と気にかけて頂いた。それが何よりも励みになった。

『3泊4日、5時の鐘』が北京国際映画祭に招待された時のこと。新人監督部門の会場である北京電影学院にて、そこで教鞭をとる王先生という方から声をかけられた。本当に佐藤先生にはお世話になったんです、と言って本を手渡された。それは佐藤先生の著書「日本映画の巨匠たち」を王先生が訳したものだった。佐藤先生の本で日本映画を学んでいる、と聞き、胸が熱くなったのを覚えている。

佐藤先生は映画について夢中で話す。夢中になり過ぎて、授業終了時刻に気がついていないこともしばしばあった。小津安二郎の撮影現場を見学しに行った時、「こんな風にして小津監督はファインダーを覗いていた」と佐藤先生はその場で腹這いになって”小津のローアングル”を真似て見せたりもした。「たまに外国に招待されると、観光名所に行きましょう、と言われるんだけど、いつもその国の映画を見せてほしい、と言うんだ」というお話もされていた。

一個人が持った映画への熱烈な思いが、今、その人がいなければ生まれなかった映画文化として生き続けている。私は一映画ファンとしてその文化の中にいるのだ。

3月17日に佐藤先生が逝去された、と報じられた。学生として多くのことを教えて頂き、作り手としてたくさんの場面で励まして頂きました。本当にありがとうございました。

「聞く」ことから「表現する」ことへ、先生の著者等を通じ、まだまだ学ばせて頂きながら、磨いて行きたいと思います。

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